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第5話/中世の大屋荘
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輪島学
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■中世の大庄屋・・・中世の輪島は大屋荘という荘園の中心だった
 中世の輪島周辺は大屋荘と呼ばれ、現在の輪島市の河原田川流域から穴水町、能登町の一部を含む広大な荘園であった。鎌倉時代初期(13世紀はじめ)には、鳳至郡の東保(南志見村を含む)、西保と鹿島郡の穴水保から構成されていたが、のちには「大屋庄十箇村」と言われ、三井保、穴水村、山田村、光浦、深見浦、鳳至院、西保、東保、南志見村などが含められていた。なお、院、保、村などの呼び名は当時の国衙(こくが、国司の役所)の支配する行政区画の単位であった。当時の地名が、およそ800年後の現代にまで受け継がれていることがわかる。

当時の村の生産規模は大体水田400反歩ぐらい(40万u)

 当時の村の生産規模を推定してみると、荘園に登録された本作田と呼ばれる水田は、現在の鳳至町付近と推定される鳳至院は41町余り、河原田川流域一帯と推定される西保は35町余りであった。

(注)1町は10反歩、3000坪で、現在の約1ha(約100m四方)に相当する広さである。