■岩倉観音の縁起
光浦(ひかり)の新左衛門(しんざえもん)や、海から木の古株(臼とも言う)を拾て来て、庭のすみに置いとったげと。それが夜な夜な光を放ったもんで、それからその村の名を「ヒカリ(光浦)」にしたげて。
そうして、しばらくたつと、新左衛門の夢まくらに、観音様あらわれて、「私は、おまえに拾われた観音だが、ここから北の方に岩倉という山があるから、そこにまつって欲しい」と、言われたと。感激した新左衛門は、その観音様を背負て岩倉の頂上にまつったげと。
やがて、近郷近在の人々がお参りするようになり、有名になったもんだから、孝徳天皇の御代に問民丘使(もんみんくし)という役人が朝廷に申し上げたところ「それは、観音の霊地である」というので七堂伽藍を造ったと。
それが、明応九年に山火事ですっかり焼けたが、観音様だけは残ったと。
また、今から五百年ほど前、沖を通る船がよく難破したげてが、ある漁師や一心に観音様拝んどったら波がおさまって助かったんだと。その人が、お礼にあげた地蔵菩薩が、今、二体だけ残っている。昔は六体あったげと。
そんで、その観音様、頂上に置いとくのはあらたかすぎる、というので下へさげて、今のところへ持ってきたのだと。
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