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■第5話 岩倉観音(輪島地区光浦・町野地区岩倉)
お話を始める前に・・・・・
第五話にゆかりの場所をご紹介します。
 大沢に向かう県道38号線を西に向かって輪島市街を出ると、すぐに光浦ポケットパークがある。夕日の名所とも言われ、日本海が広く見渡せて、天気がよいときには沖合に七つ島なども見える。眼下には「袖ケ浜」の砂浜も見下ろすことができて、夏の季節には海水浴を楽しむ子ども達も見られる。

 この光浦から観音様が上がったと言われ、そこから遥か20キロも東の岩倉寺にまつられている。光浦から東に輪島市街を抜けて国道249号線を海岸沿いに珠洲の方向に向かっていくと、「窓岩」で有名な観光スポットに出るのだが、その背後の山中に岩倉寺はある。

 前掲の写真1と2は、光浦ポケットパークからの眺めであり、写真3は町野町曽々木の窓岩、写真4は、岩倉山麓が海岸に迫っている状況を写す。

 岩倉寺は、能登国三十三観音の第三十二番札所で、本尊は千手観音である。岩倉は岩座(いわくら)を意味して、周辺一帯に仏神に関する古い伝承が多い。当初は紫雲山白雉寺として漁民や航海の守護仏として信仰を集めていたが、明応9年(1500)本堂が消失、永正4年(1507)再建され、白雉山岩倉寺となったという。
(*出典;「能登国三十三観音のたび」、北國新聞社、p.137〜141)

以下はその岩倉観音の縁起を説明する話である。
(*出典;「輪島の民話」、p.115〜116)

↓<写真1>光浦ポケットパークから岩倉山の方向を望む
<写真1>光浦ポケットパークから岩倉山の方向を望む
↓<写真2>光浦ポケットパークの眼下に見える袖ヶ浜
<写真2>光浦ポケットパークの眼下に見える袖ヶ浜
↓<写真3>町野町曽々木海岸の窓岩
<写真3>町野町曽々木海岸の窓岩
↓<写真4>岩倉山(標高357m)麓の海岸沿いの国道249号線
<写真4>岩倉山(標高357m)麓の海岸沿いの国道249号線
■岩倉観音の縁起

 光浦(ひかり)の新左衛門(しんざえもん)や、海から木の古株(臼とも言う)を拾て来て、庭のすみに置いとったげと。それが夜な夜な光を放ったもんで、それからその村の名を「ヒカリ(光浦)」にしたげて。

 そうして、しばらくたつと、新左衛門の夢まくらに、観音様あらわれて、「私は、おまえに拾われた観音だが、ここから北の方に岩倉という山があるから、そこにまつって欲しい」と、言われたと。感激した新左衛門は、その観音様を背負て岩倉の頂上にまつったげと。

 やがて、近郷近在の人々がお参りするようになり、有名になったもんだから、孝徳天皇の御代に問民丘使(もんみんくし)という役人が朝廷に申し上げたところ「それは、観音の霊地である」というので七堂伽藍を造ったと。

 それが、明応九年に山火事ですっかり焼けたが、観音様だけは残ったと。

 また、今から五百年ほど前、沖を通る船がよく難破したげてが、ある漁師や一心に観音様拝んどったら波がおさまって助かったんだと。その人が、お礼にあげた地蔵菩薩が、今、二体だけ残っている。昔は六体あったげと。

 そんで、その観音様、頂上に置いとくのはあらたかすぎる、というので下へさげて、今のところへ持ってきたのだと。

(第5話おわり)