■長太むじなの話
芹池(せりけ)の太郎三郎(たろざみ)にでかい松林があったがを、タチの者が買うたげと。そして、木挽(こびき)をいかいこと山へ入れたてが、ときどき怪しいことがおこるもんで、皆おとろしがって山へあがらんがになってしもたと。
その始末つけたが、大沢の五左衛門(ござみ)の長太郎おっさまながや。長太郎は、(中略)すごく肝のすわったもんやった。在所の衆から、長太と呼ばれとった。
昔、そこらの山は、昼からの三時ともなるともう暗なって、仕事をしとられなんだと。それだけ木が生い茂っとったし、猿やオオエン(山犬)も出たそうや。それで、他(よ)の木挽や皆早々と帰るのに、長太だけは山小屋に残って遅くまで仕事をしとった。
その長太が、小屋でご飯を炊いて食べると、毎晩大沢の在所へ下りて来た。長右衛門(ちょうよも)のオタツと近しくなって、そこで酒を飲んでは戻るがや。
やがて、その通う道に怪しいことが起こるようになった。
(中略)
そのときはそれですんだが、とうとう始末(しまい)つける時がきた。長太がタロゼンの山小屋に一人おったら化け物が正体を現してやってきたのだと。それは、大きなムジナやった。
「俺は、この山に八百年棲んどるムジナや。その俺がどんだけ頼んでもわれは言うことをきかん。こうなったら、勝負せまいか」(中略)
長太は、ああ、面倒なもんに狙われたもんやと思たが、「よし、そんならつぎの満月の晩にやるまいか」ていうたら、ムジナや帰っていった。
さあ、いよいよ約束の晩や。
(中略)
ところが、どんだけやっても手ごたえがない。ムジナはびくともしない。どうもならんげとい。夜さりから朝になるとき、とうとう長太はムジナに組み敷かれてしまった。
残念、これまでか、そう覚悟したときやった。長太の耳に不思議な声が飛び込んできた。
「長太、けだもんな、後ろへ下がっとるもんや」その声は、天狗さまだったか、神さまだったか。そうか、これは昔から聞いとるように、前におるのが影で、本体は後ろながか。(中略)長太は、まさかりを逆に握りなおした。そして、前に打ち込むと見せて思いっきり後ろへ払った。
「ギャアアアア、長太あ、勝負待ったあ」(中略)すがたは消えたが、雷のような山鳴りは夜が明けきるまで続いておった。
それからしばらくして、ウラシュウド(現伊藤本家)の納屋ん中に、大きなムジナが血を流して死んどったと。
■長太がムジナを退治した話の後日談
長太のムジナ退治の話には後日談があって、数年が過ぎた後に、雌ムジナが長太の山小屋に十七、八の美しい女に化けて、夫のあだ討ちに現れた。しかし、長太が、大沢の殿前(とのまえ)の者に頼んで筒井から観音のお守り(護符)を貰って、いつも身に着けていたために、雌ムジナはそのお守りが怖くて手が出せなかった。そして代わりに、畜生道で苦しんでいる夫の弔いを頼んでいった。
長太は、ムジナのあわれな心を思いやって、霊高寺(れいこうじ)で法会を営んでやった。数百人の参詣人にまぎれて、姉さまかぶりの女がひっそりとお詣りをしていた。その夜、長太の枕もとに雌ムジナが昼の女のすがたのまま立って、ていねいに礼を述べて立ち去った。それ以後何事もなかったという。
さらに、長太のムジナ退治は事実だったという「加賀藩史料」が残っている。それによれば、文化4年(1807)12月15日、長太27歳の時の出来事となっている。ムジナの皮の長さおよそ160センチ、幅84センチばかりで、牙の長さは9センチ余もあったという。
また、雌ムジナの復習話を加えた諸本が伝わっているとのことである。
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