輪島の民話イメージ画像・粉川寺の金剛像 輪島の民話
輪島の民話・第四話
輪島学
輪島21世紀未来計画研究会
輪島学は市民が作る輪島の百科事典です。
■目次(読みたい項目をクリックして下さい)
TOPページへもどる
@輪島21世紀未来計画研究会のご紹介
A輪島の歴史散歩
B輪島の伝統行事
C輪島のイベント
D輪島の祭り
E輪島塗
F輪島の郷土食
G輪島ふるさとかるた
H輪島の民話
I輪島学ブログ
Jリンク集
K輪島学サイトの継続的発展
※このページをご覧頂くには
adobe readerが必要です。
本のイラスト下のボタンをクリック
してダウンロードして下さい。
輪島学百科事典
PDFファイルをご覧頂くには、adobe社のサイトよりAdobe Readerをダウンロードして頂く必要があります。下のボタンをクリックして下さい。
Adobe Readerダウンロードボタン
●お問合わせはこちら〉〉〉〉

第一話/第二話/第三話/第四話/第五話

■第4話 長太むじな(西保地区大沢)
お話を始める前に・・・・・
第四話にゆかりの場所をご紹介します。
 輪島から日本海沿いに県道38号線を行くと、断崖絶壁を走るドライブコースで日本海の景色がすばらしい。ところどころ道幅がせまく運転には注意が必要だが、その先が大沢で、道路は上大沢から山越えをして門前に抜けることができる。写真1は大沢漁港であり、写真2は上大沢から山手に向かうところにあるキャンプ場から岬の方向を見たものである。海岸まで山が迫っている。大沢は特に冬の北からの風の強いところで、写真3のように、昔からの知恵で家の周囲に竹垣を巡らして防いでいる。「間垣」と呼ばれて、大沢は「間垣の里」として知られるのだが、独特の雰囲気を醸し出している。

 この大沢に「長太むじな」という独特の民話が伝えられている。第3話の猿鬼伝説と並ぶ、能登半島の代表的民話と言えるだろう。昔から節談説教の題材にもなったらしく、幾晩も続けて話されるというほどの長い話に発展したものもあり、聞いた人によって色々に伝えられたらしい。

 記録されたものもかなりの長編だが、ここではその話の一端を紹介することとし、一部を略して記す。(*出典;「輪島の民話、p.1〜6」)

↓<写真1>大沢漁港の風景
<写真1>大沢漁港の風景
↓<写真2>上大沢の海岸のキャンプ場から刑部岬の方向を見る
<写真2>上大沢の海岸のキャンプ場から刑部岬の方向を見る
↓<写真3>上大沢の間垣の様子
<写真3>上大沢の間垣の様子
■長太むじなの話 

 芹池(せりけ)の太郎三郎(たろざみ)にでかい松林があったがを、タチの者が買うたげと。そして、木挽(こびき)をいかいこと山へ入れたてが、ときどき怪しいことがおこるもんで、皆おとろしがって山へあがらんがになってしもたと。

 その始末つけたが、大沢の五左衛門(ござみ)の長太郎おっさまながや。長太郎は、(中略)すごく肝のすわったもんやった。在所の衆から、長太と呼ばれとった。

 昔、そこらの山は、昼からの三時ともなるともう暗なって、仕事をしとられなんだと。それだけ木が生い茂っとったし、猿やオオエン(山犬)も出たそうや。それで、他(よ)の木挽や皆早々と帰るのに、長太だけは山小屋に残って遅くまで仕事をしとった。

 その長太が、小屋でご飯を炊いて食べると、毎晩大沢の在所へ下りて来た。長右衛門(ちょうよも)のオタツと近しくなって、そこで酒を飲んでは戻るがや。

 やがて、その通う道に怪しいことが起こるようになった。

(中略)

 そのときはそれですんだが、とうとう始末(しまい)つける時がきた。長太がタロゼンの山小屋に一人おったら化け物が正体を現してやってきたのだと。それは、大きなムジナやった。

 「俺は、この山に八百年棲んどるムジナや。その俺がどんだけ頼んでもわれは言うことをきかん。こうなったら、勝負せまいか」(中略)

 長太は、ああ、面倒なもんに狙われたもんやと思たが、「よし、そんならつぎの満月の晩にやるまいか」ていうたら、ムジナや帰っていった。

さあ、いよいよ約束の晩や。

(中略)

 ところが、どんだけやっても手ごたえがない。ムジナはびくともしない。どうもならんげとい。夜さりから朝になるとき、とうとう長太はムジナに組み敷かれてしまった。

 残念、これまでか、そう覚悟したときやった。長太の耳に不思議な声が飛び込んできた。

 「長太、けだもんな、後ろへ下がっとるもんや」その声は、天狗さまだったか、神さまだったか。そうか、これは昔から聞いとるように、前におるのが影で、本体は後ろながか。(中略)長太は、まさかりを逆に握りなおした。そして、前に打ち込むと見せて思いっきり後ろへ払った。

 「ギャアアアア、長太あ、勝負待ったあ」(中略)すがたは消えたが、雷のような山鳴りは夜が明けきるまで続いておった。

 それからしばらくして、ウラシュウド(現伊藤本家)の納屋ん中に、大きなムジナが血を流して死んどったと。

■長太がムジナを退治した話の後日談

 長太のムジナ退治の話には後日談があって、数年が過ぎた後に、雌ムジナが長太の山小屋に十七、八の美しい女に化けて、夫のあだ討ちに現れた。しかし、長太が、大沢の殿前(とのまえ)の者に頼んで筒井から観音のお守り(護符)を貰って、いつも身に着けていたために、雌ムジナはそのお守りが怖くて手が出せなかった。そして代わりに、畜生道で苦しんでいる夫の弔いを頼んでいった。

 長太は、ムジナのあわれな心を思いやって、霊高寺(れいこうじ)で法会を営んでやった。数百人の参詣人にまぎれて、姉さまかぶりの女がひっそりとお詣りをしていた。その夜、長太の枕もとに雌ムジナが昼の女のすがたのまま立って、ていねいに礼を述べて立ち去った。それ以後何事もなかったという。

 さらに、長太のムジナ退治は事実だったという「加賀藩史料」が残っている。それによれば、文化4年(1807)12月15日、長太27歳の時の出来事となっている。ムジナの皮の長さおよそ160センチ、幅84センチばかりで、牙の長さは9センチ余もあったという。

 また、雌ムジナの復習話を加えた諸本が伝わっているとのことである。

(第4話おわり)